ゼロの未来 (ネタバレ注意)

ゼロの未来
テリー・ギリアム監督(2013年)

テリー・ギリアム監督の鬼才ぶりが遺憾なく発揮されている傑作です。
粗筋から言えば同監督の出世作「未来世紀ブラジル」の現代版、
といったところでしょうか。

主人公はコーエン・レスというスキンヘッドの中年男(クリストフ・ヴァルツ)。小さな廃墟の教会で孤独に暮らす天才プログラマーです。

教会の静謐な廃墟趣味美術の中に、割りと現実的な仕事用のコンピューターがレイアウトされた部屋です。
彼はマルコム社と契約し、在宅で仕事をし生活しています。

しかし過去に単なる胃炎だかで診察を受けたときに医師に言われた
「人はいつか必ず死ぬ」というよくあるセリフから、「なら生きていく意味なんてあるのか」という循環論にとらわれています。

また神の啓示的な幻視体験から、
「生きる意味を教えてくれる電話がかかってくる」と信じており、
ベッドサイドにはそれを受けるための電話があります。
ただそのためだけの電話。救済を待つ孤独な隠遁者といったところ。

そんな時、マルコム社から呼び出しがあります。
外に出ることが大嫌いな引きこもりの主人公が、
多重ロックにチェーンと南京錠というアナクロな扉を開いて外へ出ると、そこは近未来の光景。チープな感じも含めてよく出来ています。しかも広告が氾濫する雑踏です。

あるシーンでは、歩いて移動していく彼を追いかけて、
ホログラムの広告が建物の壁を這うようについて来ます。
しかもそれは生命保険の広告です。

到着したマルコム社では、新たな仕事。
「ゼロの定理」を完成させるという依頼を受けます。
その為に使用してよいといわれる巨大中央装置は、
火力発電社の垂直タービンだかを元にCG化された、
電子バベルの塔めいたアートワークです。

依頼を受けた主人公コーエン・レスは、
まんまゲームパッドのようなデバイスを操作して、
オープンワールドに散らばる立体ブロックを組み立てるゲームのような画面でそのプログラミングに取り組みます。

しかし、上手くいきません。
なんとか必要なブロックが全てハマり、数式が完成しそうになると、
せっかく組み上げたブロックが雪崩を打つように崩壊し、「ゼロは100%でなければならない」とエラーになってしまうのです。

もはや仕事ではなく、ゼロの定理を完成させることに執着していく主人公。もともと孤独で風変わりな人物が、さらにおかしくなっていきます。

しかしそこはテリー・ギリアム監督。
物語が進むにつれて、
マルコム社の上司であるマネージャーや、
ハードウエアの天才と称する青年、
精神科医、
息抜きに誘い出されたパーティー会場で出会う、
ベインズリーという女性と、
様々な人物との関わりを、コミカルに、そしてシニカルに描き、楽しませてくれます。

物語の後半では、
特にベインズリーちゃんとの関わりが深くなります。
彼女はなんと自前のVRエロサイトを運営しており、
主人公はこれにハマっていきます。
そのVRエロサイトの入り口というのがまた・・・。

しかし、ゼロの定理は完成しません。
自暴自棄になりPCを破壊したり、
モニターを90度回転させた状態でプログラムしたり、
全身体感型のVRスーツを手に入れて、彼女のエロサイトに入って死にかけたりと、
まーいろいろやらかします。
しかしそんなスキンヘッドオヤジですがなぜか憎めません。

そんな主人公に好意を持ち始める、ベインズリーちゃん。
VRサービスで、美しい夕日のビーチを作り出し、恋人気分を演出してくれたりします。
そこで今度はあなたの心の風景を見たいとせがまれる主人公。
まーエロか家庭かの妄想VR世界が展開しそうな伏線なわけですが、
しぶしぶ見せたその世界は、さながら渦巻くブラックホールのよう。
全てをのみ込む虚無、主人公の絶望の象徴です。

終盤では、
それまで関わってきた全ての人物、
ベインズリーちゃんまでもが、プログラムを完成させるために、
マルコム社が仕向けた仕込みだった事が発覚してしまいます。

完全に壊れてしまいそうになる主人公を目の当たりにして、
ベインズリーは「私がめんどうを見てあげるから。なにも心配しないで、一緒にどこかへ逃げましょう」的な告白をします。

さて、コーエン・レスは一緒に行くか。
いえ、彼はその手を振り切ります。

そして中央装置がある部屋に侵入し、それを破壊しようとします。
しかし、巨大なタコの足のような配線を引き抜いても、
それは自動的に再接続してしまいます。
悪魔的な演出ですね。

しかしついに中央装置にどでかい穴を開けることに成功。
そして中に入っていくと、
そこにあるはずのブラックホールはなく、
以前ベインズリーが創ったあの美しいビーチが…しかし今回は彼一人です。前回は停止していた、美しい夕日が、今回はゆっくりと沈んでいきます。

主人公は満ち足りた表情で、夕日を眺めてエンディングとなります。

ここで、女性JAZZボーカリスト、カレン・ソウサがカバーした、
ラディオヘッドのCREEPがゆったりと流れエンドロールです。

 

訳がわからない?
いえ、そんな事はありません。

そもそも、ストーリーのアウトラインは、CREEPの歌詞そのもの
と言えてしまうほど単純です。

大きな疑問点は、
どうして彼女と行かなかったの?
どうして最後にはブラックホールでなくなったの?
ゼロの定理はどうなったの?
といったところでしょうか。

これら3つの疑問点は、
全て一つの答えを示していると思います。

ゼロの定理、つまりゼロの証明についてですが、
この作品では、対称と非対称の問題として解釈しているように見えます。ゼロ以外の数は、ゼロの両辺にプラスとマイナスで無限大に存在します。
対してゼロは、数が無いのではなく、プラスでもマイナスでもないと考えるわけです。つまり、未然の数とでもいいましょうか。

ゼロはゼロのみ(ゼロが100%)では無意味となり、ゼロ以外の数を前提することで意味を持つ。つまりゼロとなる(ゼロでいられる)。
そして全てはゼロになったり数になったりしながら、無限に盛衰(循環)する。

ゼロとは対称な状態であり、
数とは非対称な状態で、
数、非対称は決定された状態…決定論…主人公、その他の人生。
ゼロ、対称は未然の状態…自由意志。
そして全体としては、2つの状態が互いに不可欠である散逸構造体…
というふうに描かれています。

ラストシーンのVRビーチはつまりゼロの世界。
まだ何も決まっていない、広大な可能性の世界です。
そこで彼は、否定も肯定もしないし、されない、
完璧な原初の世界にいるわけです。
そこでは太陽が移動し、つまり時間が動きます。

対して、
ブラックホールや、運命の電話が示しているのは、
決まってしまっている世界。
彼自身を含む全てのキャラクターは、
既にそれぞれのロール(役割)の中にあり、
それは数字化済の存在なので、それぞれのロール(数)は関数的に関わりながら、数学的に決定された役割を生きていきます。
このストーリーでは、それが破壊的な結末(答え)へと収斂しかけるわけです。

またブラックホールは、エントロピーの増大と、カオス化という意味で、カオス理論と、散逸構造論の対比にもなっていると思われ秀逸です。

ベインズリーちゃんと見たビーチで夕日が停止しているのは、
生きているといっても、その時間は、実は決定論的で、
そこでは時間など流れていないのだというメッセージであり、
介入出来ない自分の人生、自分が阻害されている自分の人生、
という不毛の象徴でもあるでしょう。

しかし人は、ときにはそれぞれのやり方で、ゼロの世界へ入り、
そこでこそ時間が動く、つまり変更が可能になるという事。

それがVRの中という、いわば刹那な設定で表現されているのがまた秀逸です。
何もせず、何も選ばずに生きていくことなど出来ないわけで、
どんな事をしても、概ね決定づけられた世界を生きていかざるを得ないのが人の姿です。

そして本当の意味での選択が可能なゼロの世界は、あまりに貴重だという意味にとれます。
ゼロ以外の数は無限大で、ゼロはそれ以外ですから、
ゼロの確率はなんと、無限分の1です。
しかし、その無限分の1の確率のゼロは人の数だけあるのではないかと、テリー・ギリアムは言っている気がします。

ラスト付近で破壊した中央装置が自己修復するエピソードですが、
これが決定論ではなく、生命理論ともいえる、散逸構造論として解けというサインだと思います。
破壊しつつ再生する、つまり代謝する構造体。

そしてそれは、人の時間についても想像させてくれます。
決定論的無時間と、ゼロ的実時間。
時間とは止まったり動いたりするものからなる連続体であって、全てが動いているから連続しているのではないと。

よく言いますよね。
たまには違うことをやってみろとか。
いっそのこと全部捨ててみたら・・・みたいな。

最近流行りの、断捨離とかも、
実はゼロの世界と同じ意味合いかもしれません。

そして、
タイトルの「ゼロの未来」。
もう説明いりませんね。

素晴らしい映画でした。

テリー・ギリアム監督様。

マナーとコスト

最近、マナー違反についての話題が多くなっていますね。

マナー違反、つまり迷惑、または危険行為ということですが、
この話はコストとして考える事もできます。

何を違反とするかは、ともかくとして、

マナー違反を防ぐ為に、教育、監視、建物の強化等を行えば、
当然コストが発生します。
すると、コストに見合わなければ、
そのサービスや娯楽は無くなってしまう可能性がありますね。
また、それが安全についてであれば、普段気にかけていないだけで、
その維持コストは増大してしまいます。

社会生活に関わるマナーであれば、そのコストもまた社会(企業、行政等)から拠出されているので、結果的にその原資は、私達が創出した付加価値から支払われる事になりますね。

労働対価といいますが、これは自給自足生活のような場合に当てはまるもので、
現代社会では、労働自体は生産や提供(サービス等)のためのコストでしかなく、それだけでは食べていけません。
生産物や、提供物から金銭を得なければなりません。これが付加価値の正体ですね。ですから高付加価値とは、高利益という、ある意味分かりやすい話です。

さて、マナーのコストに話を戻します。

以上のことから、マナーの維持に対するコストの増大を補うためには、
ただでさえ労働のみでは生活出来ない仕組みのなかにいる私たちの、
生活の糧である付加価値を奪うので、結果として創出した付加価値が下がっていく事になります。

つまり、もっともっと、付加価値を創出しなければ、同じ水準の社会が維持できなくなっていくわけですね。

わたしたちの日本型社会は、相互監視の内在化(自動化)が強化され、再生される社会システムであると考えると、マナーのためのコストは最小化されていたと推論できます。

マナーが維持される事で得られるメリットより、
マナーを維持するためのコストが大きいなら、
ましてやその差が、非常に大きいといったケースでは、
マナーそれ自体の再評価といったことにも妥当性が生まれますね。

コストというと、非人間的な響きがつきまといますが、
例えば、労働時の身体的、精神的疲労。
行きたくない、やりたくないといった気持ち、もまたコストです。

もしもこの社会全員の価値観が、
出来るだけ少ない労働で、出来るだけ多くの付加価値を創出すること。
だとしたら、
妥当なマナーとは、
出来るだけ少ないコストで、可能であればそれ自体が付加価値を創出するもの。
となりますね。

マナーについて考える時、それをコスト&メリットで評価していく合理性の共有。そんな人々と暮らす社会は実現可能なのでしょうか。

私には分かりません。